1927年、アメリカ・ミネソタ州ダルーズ生まれ。1955年からずっと日本に住みながら風景や建物を描き続ける。氏が描く優美で、壮大で、洒脱な作品は、国内外に多くのファンをつくった。晩年石川県金沢市主計町に移住。以後12年間、茶屋跡に住居兼アトリエを構え、主に金沢の風情を描いた作品の創作活動に励んだ。また地元百貨店での展覧会開催を含めて全国の主要都市及び世界各地で展覧会を開催。また金沢では、空き缶ポイ捨て防止を呼び掛ける版画の短冊を作成したり、地元神社の絵馬を描いたりと様々な街づくりに貢献。2007年他界、享年80歳。
個展開催
日本各地、アジア、ヨーロッパ、アメリカ
作品依頼商社
松下電器産業(株)、伊藤忠商事株式会社、日本アイ・ビー・エム、キャセイ・パシフィック航空、香港上海銀行、、AIUジャパン、ACCジャパン、ビジネスウイーク誌、パシフィックマガジン、NBCマガジン、日本放送協会(NHK)、ボストン・京都姉妹都市委員会日本文化協会、日本文化、東京アメリカンクラブ他多数。
記事掲載
ニューズウイーク、アメリカプレイボーイ、リーダーズダイジェスト、グラフィックアニュアルズ、ジャパンビクトリアル、オリエンテーションズ、アジアマガジン、パシフィック、毎日グラフ、アート紳士録、現代日本版画紳士録、日本版画、ソフィア、ACCJジャーナル、家庭画報、ロサンゼルスタイム誌、中国美術、ジャパンクオリティー、他多数。
所 蔵
松阪財団、シンシナティ美術館、ハーバード大学、クンスト美術館(ザルツブルグ)、ミネソタ美術館、ボストン美術館、ラーティ国立美術館(フィンランド)、ハワイ大学、ツイード美術館(ミネソタ州ダラス)、オーストラリア国立美術館など。
個人所有
B.フリーマン(AIU)、H.ハンフリーアメリカ元副大統領、スティーブ・パーカー、シャーリー・マクレーン、マイク・マンスフィールドアメリカ大使、キャスパー・ウエインバーガー、アーサーザルツ・バーガー、デビット・ロックフェラー、H.スタックポール将軍夫妻、ジェームス・ハドソンアメリカ大使、ベンガー・リンツフィンランド大使、オズモ・ローレンスフィンランド大使、マウノ・コビストフィンランド大統領、ヤマダタモツ、ジェームス・マイクナー、ジョンシェパード、ヒューゴ・ダウンスなど。
晩年を金沢に暮らした理由
多くの作品にあるテーマ「日本家屋・町屋文化」京都にはない、観光化されていない部分が金沢の主計町(かづえまち)・ひがしやま周辺には残っていたからだと聞きました。また四季の移り変わりの明確さも愛した理由だそうです。
九谷焼の絵付けを依頼されて金沢を訪れて以来、金沢に魅かれるようになり、通い慣れるうちに家を買って、内外装を金沢の茶屋(町屋)文化に沿った伝統的な様式に整えたそうです。 但し、料理好きな彼らしく、キッチンはモダンなアメリカ式の快適さを追求したとのことです。
自画像
歌舞伎役者のようにユーモラスな作品が、年代・年齢毎に何点かあります。絵の中では青い目で描かれていますが、実際のカーフさんはブルーグリーンの目をしていました。
カーフさんの愛したもの

- 愛猫のマイト君(フィンランド語でミルクの意)
マイト君は2010年の4月19日に甲状腺のがんで死んでしまいました。(享年11歳) - コナのコーヒー
- 葉巻…ダビドフのモンテクリストNO.2(キューバ産)
- Tボーンステーキ
- 料理(アメリカ・フィンランドの郷土料理を中心に)
また日常に変化を求める意味でも、自宅での料理は全て、カーフさん自身が作っていたそうです。 - 釣り(主に川釣り)
特にあゆの友釣りは、軍人を退官し日本に再来日して岐阜県に住居を構えた頃、釣った鮎を売って生計を立てていた程の腕前らしいです。(版画家として活躍する以前の頃)
また晩年に住みなれた京都を離れて、金沢の浅野川沿いの茶屋街に住居を構えた理由の一つにも繋がりますが、浅野川沿いの景観を甚く気に入った事は勿論、若き日の郷愁(釣りで生計を立てていた頃の)があったからだそうです。また実際に少し下流で、釣りをしていたらしいです。(浅野川は鮎が少ないので、はや釣りを主に。)
闘 病
他界される1年3ヵ月前の1月に「肝細胞がん」が見つかり入院。余命4カ月の宣告を受ける。けれど同氏を愛する様々な人達に励まされながら本人も努力して、何度かの入退院を繰り返しつつも生き続けたそうです。その間も病状が少しでも回復すれば金沢へ戻って自宅で過ごしたらしく、最後も周りの知人達に「金沢へ帰りたい」と繰り返し言っていたそうです。
また亡くなる少し前の2月7日から約3週間、長年愛する人を伴いハワイへ最後の旅行に行かれました。そしてオワフに暮らす友人達と談笑したり大好きな葉巻を燻らせたりして過ごしたそうです。けれど関空に戻った時には、殆ど食事も出来なくなっていたらしいのですが、気丈にも一切の弱音を回りに吐かず、やせ細った顔で、眼光だけは光らせて、「金沢へ帰る。」と何度も強く願ったそうです。結局、関空内の日航ホテルで宿泊・静養して、金沢へもどりました。
1927年 (0歳) |
アメリカ、ミネソタ州ダルースに誕生。祖父母はフィンランド生まれ、後にアメリカへ移住。ちなみに両親はアメリカ生まれ。 |
1947年~49年 (20歳~22歳) |
米軍人として来日。長崎県佐世保市に駐在。任務は軍隊付き画家。 |
1950年~52年 (23歳~25歳) |
米ミネアポリス美術学校に学ぶ。 |
1955年 (28歳) |
再来日。以後は日本に住み続ける。始めは滋賀県、その後、京都に移住。 |
1958年 (31歳) |
岐阜県長良杉乃町に移住。日本美術界へ踏み出した。 |
1961年 (34歳) |
初の個展を開催し大成功を収める。 |
1962年 (35歳) |
再び京都へ移住。65年まで太平洋美術協会に所属。 |
1963年 (36歳) |
国内の主要都市16か所、香港、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカで個展多数開催。 |
1975年 (48歳) |
「カーフ版画」を刊行。 |
1977年 (50歳) |
日本版画協会京都支部長を勤める。 |
1979年~1980年 (52歳~53歳) |
版画集「京都再見」を刊行。 |
1981年 (54歳) |
版画集「京都発見」を刊行。 |
1986年 (59歳) |
回顧展 アメリカミネソタ州ツイード美術館にて開催。 |
1988年 (61歳) |
回顧展 京都高島屋にて開催。 |
1990年 (63歳) |
回顧展 フィンランド、レトレッティー・アートセンターで3カ月に渡り開催。東京都有楽町阪急百貨店にて「30年のあゆみ、クリフトンカーフ展」開催。アメリカ大使館、朝日新聞社、トールマン・コレクション共催。 |
1991年 (64歳) |
「一筆先は…」刊行。 |
1995年 (68歳) |
石川県金沢市主計町に移住。 以後12年間、創作活動を続ける。 |
1996年 (69歳) |
フィンランド、ラーティ国立美術館で展覧会開催。 |
1997年 (70歳) |
ドイツ、モーリッツバークで展覧会開催。 |
2003年 (76歳) |
フィンランドやアメリカで展覧会開催。 |
2004年 (77歳) |
「クリフトン・カーフ77木版画」刊行。 |
2007年 (80歳) |
京都市内の病院で他界。 |